2024年05月07日

銀河鉄道の父 邦画 2023年

銀河鉄道の父 邦画 2023年 2時間8分 動画配信サービス

 小説は読んだことがあります。
 『銀河鉄道の父 門井慶喜 講談社』以下は、小説を読んだときの感想の一部です。
 童話作家宮沢賢治という人物の光の部分と陰の部分があります。主役は賢治ではなくお父さんの政次郎さんです。前半から中盤まで、そして最後まで、お父さんの気持ちがいっぱいです。息子を愛している。代々続いた家業である質屋の後継ぎとしての期待を裏切られても、息子への資金援助はしていく。気が長くて寛容です。自分が行きたくても行けなかった学問の道へと息子を導きます。
 対して、息子である賢治は、親にお金をせびる。いつまでたっても自立できない。
 父の影にいた賢治の姿が、徐々に見えてくる表現手法です。
 夢を追う賢治は困窮します。父や祖父の言いつけ通り、質屋を継いでいれば富豪のままでした。向いていなかった。商売人になれない資質で生まれてしまった。人生の途中経過で、そんな結論が出てしまいますが、創作で救われます。
 タイトルは、宮沢賢治作品、『銀河鉄道の夜』を少し変えてあるのでしょう。
 宮沢賢治:童話作家、詩人。1896年(明治29年)-1933年(昭和8年)37歳で病死。

 さて映画の感想です。
 明治29年9月から始まります。1896年です。宮沢賢治が生まれた年に三陸沖大地震があった。(1896年6月15日明治29年)。
 先週読み終えたばかりのこどもさん向けの本にそのことが書いてありました。『海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞 田沢五月・文 国土社』。岩手県山田町にあった小学校が舞台でした。別途その本を読んだときの感想をあげてあります。

 映画のはじまりは、明治29年の風景です。『失敬、失敬(しっけい。失礼しました)』という言葉を久しぶりに耳にしました。電報も出てきます。自分がこどものころは、時々電報が家に届きました。今は電報という言葉さえ聞きません。
 イノシシやクマが、蒸気機関車とぶつかって列車が停まります。今もそういう鉄道事故はあるかと思います。明治時代のようすは、純和風で、見ていて気持ちが落ち着きます。

 明治時代ですから、男尊女卑の社会です。長男は跡取りとか、戸主が家を仕切るとか、そんな話が出るのですが、長男の宮沢賢治さんは、質屋(しちや。金貸し)という家の商売を継ぐ気はありません。いちおう見よう見まねで、質草(しちぐさ。品物)を持って来たお客の話を聞いて、お店が損をするぐらいのお金を渡してしまう人です。さらに、客が賢治にした苦労話は噓なのです。
 気持ちが純粋な賢治は、人からだまされ続けて、人嫌いになって、宗教に洗脳されてと、なかなかの苦労と混乱の若い時代を過ごします。
 父親との衝突もあります。父親は、ときには大きな声をあげて息子と対決しながらも、こどもたちに深い愛情を示します。
 経過としては、賢治とその妹トシ。ふたりとも病死します。結核です。
 結核(けっかく):結核菌、空気感染する。肺の病気になる。咳(せき)、痰(たん)、発熱が続く。過去において、おおぜいがかかる国民病だった。

 菅田将暉さん(すだまさきさん)が、熱演です。かっこいい宮沢賢治像です。ときに、なにかにとりつかれたように太鼓をたたきながらお経さんを唱えます。(となえます)。キチガイになったようでもありますが、父親が息子の賢治をかばいます。
 妹トシが兄の賢治さんに言います。『(兄は)日本のアンデルセンになる』。本人死後のことですが、アンデルセンになれました。

 進路について、父と息子の対立があります。
 こどもの人生は子どものもので、親が子どもにあれこれ指示するものではありません。
 うまくいかないと、あとで親のほうがとても後悔することになります。こどものやりたいようにやらせてやれば良かったと後悔します。こどもの結婚話でも同様です。娘がどんな男を連れて来ても、おめでとう。良かったなと言うのが、父親の役割です。
 
 宮沢賢治の資質と性格です。
 人のために働いて、困っている人たち(農民)を助けたい。人助けをしたい。
 学問を学んだことと、本人の生まれもった資質で、社会主義的・共産主義的な考えが賢治の心の根底にあります。昭和40年代にあった大学生の学生運動を思い出します。プロレタリアート(労働者階級、無産階級)という言葉を思い出します。
 賢治があれこれやりたいと言いますが、資金はありません。実家の資産を頼りにします。
 見ていて、親不孝者だと思える一面もあります。
 
 祖父は認知症になって、奇行がめだつようになり亡くなりました。
 葬式行列の映像が流れますが、自分も7歳ぐらいのこどものころに葬式行列に参加したことがあり、映像が、そのときとは状況が異なるので不可解でした。
 こどもだったわたしは、両手で、亡くなった人のお位牌を目の前に掲げ(かかげ)持って、先頭から複数の人たちが持った長方形の旗竿(はたざお)の列の後ろからついて行きました。
 映像では全員が白装束(しろしょうぞく)ですが、わたしのときは、だいたいの人たちが普段着だった記憶です。
 映像では、火葬場が修理中のため、野原で遺体を火葬にします。薪(まき)が遺体のまわりに組んであって火をつけて燃やします。
 わたしが体験したときは、土葬だった記憶です。昭和40年ころの記憶です。映画の映像は明治時代後半のころですから、火葬というのは不可解でした。
 ネットで調べたら、明治時代にも火葬はあったそうで、そうすると、わたしが暮らしていた地域は、当時はまだ火葬場がなかったという僻地(へきち)だったのでしょう。熊本県の島でした。その後、島と陸地の間に複数の橋がかけられました。
 あとは、遺体を入れたお棺(おかん)の形が、映像とわたしが体験した記憶では違いました。映像では、いまどきの直方体のお棺でしたが、わたしが体験したときは、円形の樽型(たるがた)のお棺でした。遺体を座った状態でお棺に入れて、天秤棒のようなものでお墓までかついで運んで、あらかじめ掘ってある穴に入れて、おとなたちが土をかけて埋めているのを見ました。

 反抗期のような時期が続く宮澤賢治です。
 先日読んだ本を思い出しました。
 『ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ) 婦人之友社』なかなかいい本でした。以下は感想の一部です。
 自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです)『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。

 こちらの映画に登場する作品として、『風の又三郎』、宮沢賢治は、結核にかかって、命短い妹トシに読み聞かせをするために童話を書きます。トシが賢治に、兄さん書いてと頼むのです。兄さんが書いた童話はおもしろい。
 
 東北は、雪が多いからたいへんそうです。
 
 父親もそれなりに学がある人だった。
 明治時代中期・後期で、すらすらと文字の読み書きができる人が多かったとは思えません。
 
 作品として、『注文の多い料理屋』
 自費出版本は、売れません。
 現実は厳しい。

 昭和3年(1928年)のこととしての映像が流れます。
 少人数の演劇を観ているような映像です。
 『本当は、お父さんのようになりたかった』(でも賢治はなれなかった)
 賢治は、結婚して跡継ぎのこどもをでかす(つくる)代わりに、物語を生んだ。

 名作、『雨ニモマケズ』が出てきます。雨ニモマケズ、風ニモマケズ…… です。
 手帳に記されていたメモです。
 没後に発見されたはずですが、映画では、生存中、死に際に父親がその詩を暗唱しています。前記した火葬・土葬のこともあってから、わたしは、この映画は全体的に製作者によって話がつくられているのではないかと疑いました。

 宮沢賢治さんの死に際です。結核でお亡くなりになった昭和8年の映像です。
 レコードで、クラシック音楽ドボルザーク『新世界から』が流れています。
 余談ですが、『新世界から』は、自分は中学の時に聴いて感動しました。自分が在籍していた中学校の吹奏楽部が体育館で演奏してくれました。
 指揮者をされていた先生が熱心な指導者で、レベルが高かったと思います。吹奏楽部員は、毎朝、授業が始まる前に登校して朝練(あされん)をしていました。ほかのクラブ活動にも朝練がありました。そういう時代でした。当時の日本人は、なにかひとつのことに膨大な(ぼうだいな)時間を費やしてがんばっていました。
 
 映像を観る限りでは、宮沢賢治は考え方が、凡人とは反対の人でした。
 思いやりが強い人です。人のためになりたいと強く願い続けた人です。
 いっぽう彼のまわりにいる彼を頼ってくる人は、彼に依存してくる人でした。彼を利用して自分が得をする。彼が経済的、精神的につぶれてもかまわない。自分が生き残ればそれでいいとする卑劣な人です。

 最後のシーンは、作品、『銀河鉄道の夜』です。
 ジョバンニとか、カムパネルラが出てきます。昨年夏に、東京下北沢にある本多劇場で、『銀河鉄道の夜』の演劇を観ました。
 鉄道列車には、亡くなった人の霊魂が乗っていて、あの世へ向かって星空の中を走っているのです。
 映像では、その列車に、宮沢賢治の父親が乗ってきました。4人がけ向かい合わせのボックス席には、すでに、亡くなっていた宮沢賢治と妹のトシが座っています。
 父親は、ここいいですかと声をかけてふたりの前の席に座ります。(父親も寿命で亡くなったのでしょう)
 父親が言います。『あなたがたはどちらへいくんですか?』
 『どこまでもいくんです』と返答があります。どうも、霊魂になって、親子の関係が切れているようです。
 父親の言葉です。『まっことありがとうござんした』(自分の子として生まれてきてくれてありがとうという意味だと受け取りました)  

2024年05月06日

海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞

海よ光れ! 3・11被災者を励ました学校新聞 田沢五月・文 国土社

 本に、A4ぐらいの大きさの新聞縮小版がはさんであったので、最初に読もうかと思いましたが、内容が、令和5年(2023年)となっていたので、本を読んだあとで新聞を読んだほうがいいと思い、後回しにしました。

 まず全体のページを最初から最後までめくってみました。
 東日本大震災が素材です。2011年3月11日金曜日午後2時46分発災です。平成23年でした。もうずいぶん前のことになりました。日本ではその後、熊本地震、能登半島地震が起きました。いつになるかわかりませんが、また、どこかで大きな地震は起きると思います。

 本の中の場所として、『岩手県山田町』が出てきます。北にある宮古市と南にある釜石市の間に位置しています。
岩手県の県庁所在地である盛岡市の東南、海岸沿いの町で、南には、ニュースでときおり耳にする大槌町(おおつちちょう)があります。
 山田町内の鉄道駅として、三陸鉄道リアス線で、久慈(くじ駅。久慈市)から盛(さかり駅。大船渡市)までの路線の途中に、『陸中山田』という駅があります。
 東日本大震災が起きて何日かして、山田町から愛知県内に避難してきたという人を見たことがあります。わたしはそれまで、岩手県に山田町があるということすら知りませんでした。そして、ずいぶん遠くから愛知県まで避難して来られたものだと驚きました。
 そのとき気づいたのですが、避難者のご家族というのは、ずっと同じところにいるわけではなくて、どこにいても一時的な滞在地で、短期間でよそへ移動されていきます。安住の地を見つけるのには時間がかかります。

 この本の趣旨はなんだろう。『海よ光れ!』というのは、どういう意味なのだろう。今はわかりません。
 学校新聞の話らしい。
 この本のつくりは、相手にインタビューをして、聞き取ったことを文章にしてあるようです。
 (わたしは、本を読みながら本の感想をつぎ足して文章を仕上げていく人です)

(1回目の本読み。最初のページから最後のページまでゆっくりめくってみる) 

 山田町:漁業の町。山田湾がある。カキやホタテの養殖をしている。
 大沢地区という集落の話をするらしい。
 被災後の白黒写真があります。凄惨です。(せいさん:むごたらしいようす。目をそむけたい)。家が津波で海水に水没しています。
 
 文章にリズム感があります。音楽のようです。
 
 明治29年6月15日(1896年)に地震があった。大津波が起きた。(この年の8月27日には、岩手県花巻市で、童話作家の宮沢賢治が誕生しています。37歳没。この本を読んでいた時に、邦画『銀河鉄道の父』を動画配信サービスで観ました)
 自分の記憶では、明治27年が、日清戦争です。1894年でした。10年後の明治37年が、日露戦争でした。1904年でした。東北で大きな地震があったのは、1896年です。『1896年明治三陸津波』というそうです。ということは、2011年から数えて、また115年ぐらいたったら大津波が起きるほどの地震が発生すると考えてしまいます。

 本の内容は、学校という狭い世界、狭い箱の中の空間の話です。
 
 自然災害は戦争ではありません。人為的なことではないので、防ぎようがありません。地震や津波の発生を人間は止められません。

 写真には、『がんばろう』の文字が並びます。だけど、『がんばろう』だけでは、息が詰まるということもあります。『リラックス』も必要です。

 被災者のつらさは、被災した人間にしか出来事を実感できないということはあります。これからどうしようという絶望感があるとお察しします。
 テレビや新聞でニュースを聞いた人は、たいていは、募金をしたり、現地の特産物を買ったりすることぐらいしか応援できません。

 こどもは、いつまでもこどもでいるわけではありません。

 文字を読むことはたいへんなことです。
 新聞をすみからすみまで読む人は少ない。
 新聞は、書いた人、作った人がいちばん内容を理解しているということはあります。
 新聞をつくるという行為で、沈んでいた気持ちが救われるということはあると思います。
 
 功績がある内容でも、仕事でやったからということはあります。
 生活していくためにはお金が必要です。お金を手に入れるために仕事をすることが基本です。
 社会生活は複雑ですからいろいろあります。

(2回目の本読み)
 『はじめに』があって、小さな項目が1から13まであって、『おわりに』があって、『出版記念「海よ光れ」号外』があって、『あとがき』があります。本に別紙で付いている号外と本の150ページにある号外は同じものでした。

 山田湾をはさんでいるのが、『重茂半島(おもえはんとう)』と『船越半島(ふなこしはんとう)』です。
 力強い雰囲気で書かれた文章が続きます。
 山田湾には、『大島』と『小島』があって、江戸時代には、大島にオランダ船が立ち寄ったそうです。
 以前読んだ本に、ペリーが来航したとき、江戸幕府は、そのときはじめて外国から開国を迫られたわけではなくて、何年も前から、複数の国に開国を迫られて断っていたと書いてありました。外国はまずは、日本と貿易をしてお金を稼ぎたかった。

 山田町の夏のイベント:魚賀波間神社(ながはまじんじゃ)のお祭り。おみこしがある。踊りとして、『神楽(かぐら)』、『虎舞(とらまい)。「大沢虎舞」と書いてあります。地元に保存会があって、小学校の運動会で披露しているそうです』、『獅子踊り(ししおどり)』がある。(東北らしいと思いました。以前読んだ本に、小学生の舞(まい)のことが書いてありました。『ふたりのえびす 高森美由紀 フレーベル館』 そちらは、舞台は青森県八戸あたり(はちのへあたり)、小学校5年1組の(郷土芸能であるらしき)地元の歌舞伎みたいなお祭り演技に小学生が挑戦します。えびす舞(まい):縁起がよくなりますように。豊作でありますように。無事祈願でしょう)

 2011年3月11日東日本大震災が発災して、大津波が押し寄せた。山田町立大沢小学校に、おおぜいの人たちが避難した。

1 全校表現劇『海よ光れ』(悠太くん(5年生。福士悠太さん))
 ここで、タイトルの“海よ光れ”が、劇であることがわかりました。
 でも、書いてあるのは、東日本大震災が起きる一年前の時点です。どうしてだろう。
 1年生から6年生まで全員で、『海よ光れ』という劇を演じるそうです。毎年その劇を上演するそうです。昭和63年(1988年)に脚本ができたそうです。大沢小学校に勤務していた箱石敏巳先生と、地元の劇団きたかぜ代表の藤原博行さんでつくったそうです。
 祖父が孫に大沢地区に関する昔話をするストーリーだそうです。捕鯨の話、イカ漁の話、そして、明治と昭和に津波があった話だそうです。(明治はわかりましたが、昭和にもあったのか)
 自然災害の発生に関する伝承があります。気をつけろ。また津波が来るぞです。
 
 小学生たちが組み合って、津波の波を体で表現するそうです。潮のうねりがあるのでしょう。
 (津波から子孫が身を守ることを示唆するための演劇なのだろうか。しさ:暗に教える。暗示する)
 
 昭和の津波
 昭和8年3月3日(1933年)昭和三陸地震津波。岩手県内の死者1408人(知りませんでした)
 昭和35年5月24日(1960年)チリ地震の影響による津波。岩手県内の死者55人。(なんとなく、昔聞いたことがあります)

 明治の津波
 明治29年6月15日(1896年)明治三陸地震津波。岩手県内の死者18158人。うち、山田町で亡くなった人の数は、2984人だそうです。

 劇は日本の宗教っぽい。
 明神様(みょうじんさま。威厳と徳のある神)
 
 登場する人の数が増えてきたので整理が必要です。
 演劇の劇中の人物(役柄)として:よっぱらいの辰治郎じいさん(たつじろうじいさん)、校長先生、船頭)
 福士悠太:大沢小学校5年生。お父さんは消防署員。大学と高校に進学する姉がいる。
 古久保優希菜:5年生。背が高い。バスケットボールがじょうず。海の子児童会執行部員。なお、悠太も同じく海の子児童会執行部員をしている。4年生の時に内陸部の小学校から転校してきた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団に入った。
 中村奈緒:6年生。児童会長。村人役を演じた。学校新聞『海よ光れ』の編集長をしている。
 箱石佑太(はこいし・ゆうた):6年生。老人役を演じた。ミニバスケットボールのスポーツ少年団員。
 武藤愛(ぶとう・あい):6年生。ナレーターをつとめた。
 大川海渡(おおかわ・かいと):6年生。ふたごの兄。大沢スポーツ少年団員。悠太も同じく大沢スポーツ少年団員である。ケガをして松葉杖をついている。
 大川海成(おおかわ・かいせい):6年生。ふたごの弟。大沢スポーツ少年団員。鼻たれ坊主のこども役だった。
 佐藤はるみ先生:新聞製作の担当。
 
 この演劇は、東日本大震災の一年前に演じられています。
 翌年、津波に被災したということは、そこに住んでいた人たちがどこかへ避難したということです。避難したということは、そこにあったコミュニティ(地域社会の集まり。集落)が消えたということです。読んでいて気になりました。本のページをずーっとめくっていきました。
 143ページに、『大沢小学校は本年度で閉校になるため、これが最後の「海よ光れ」になります』と書いてありました。せつないものがあります。2019年(令和元年)秋のことでした。演劇での津波のシーンは、心が傷つく人がいるからやらないそうです。震災の翌年からずーっと、津波のシーンはやらなかったそうです。最後の演劇でもやりませんでした。

2 もう一つの「海よ光れ」(悠太くん)
 小学校の学校新聞があります。全校表現劇(演劇)と同じ名称が付いています。
 『海よ光れ』です。岩手県で新聞コンクールがあるようで、毎年いい成績をあげているそうです。
 2010年3月には、全国大会で、『内閣総理大臣賞』を受賞しているそうです。たいしたものです。東日本大震災の前年です。
 新聞の第73号:文化祭での学習発表会に合わせた特別号。2011年のことです。地震はまだ起きていません。担当は、佐藤はるみ先生でした。当時小学生のこどもさんがいたそうです。ベテラン教師です。
 フライ旗(ふらいき):大漁旗(たいりょうばた)
 できあがった学校新聞を、劇が始まる前に、水産会社の人、植木屋の人に渡します。いろいろお世話になっているそうです。
 全校新聞である、『海よ光れ』以外に、一年生から、個人新聞をつくっているそうです。大沢小学校は、新聞づくりに熱心です。
 29ページの新聞4枚は、文字が小さいので、老眼のわたしには読めません。
 レタリング:手書きの文字。
 
 なんというか、おとなの世界だと、仕事は、利潤の追求が目的です。(お金もうけ)
 学校新聞づくりは、利潤の追求ではありません。
 お金のことを考えなくてすむということは、自由な発想でつくれるということです。

3 楽しかった東京(優樹菜さん)
 震災直前のことです。2011年3月5日、5年生の古久保優樹菜さんが東京へ行きました。
 大久保裕明校長と佐藤はるみ先生と東北新幹線に乗りました。学校新聞の表彰式に参加するためでした。
 これからは、卒業する6年生のあとを継いで、今の5年生のメンバーが中心になって、学校新聞『海よ光れ』の第78号をつくります。
 
 大津波の発生の日が近づいています。

4 大津波(奈緒さん(児童会長6年生中村奈緒さん))
 東京から岩手県山田町に帰ってきた6日後に被災されたそうです。
 マグニチュード9.0(とても大きい)。巨大地震の発生です。
 2011年(平成23年)3月11日午後2時46分のことでした。
 しばらくして、大津波警報が発令されました。

 大沢小学校は、標高が高い位置に建っていたので津波はそこまで届かない位置だったそうです。土地の人たちの避難所になったそうです。
 逆に海に近いところに住んでいたこどもたちは家に帰れなくなりました。親にも会えないこどももいたそうです。
 高橋信之副校長が安全を呼びかけて保護者をコントロールします。その後、大久保校長も小学校に駆けつけます。
 
 まるで、災害パニック映画のような光景が、目の前で現実に繰り広げられます。大きな津波が、海に設置されている防潮堤を超えて、人間が住む住宅地へなだれこんできます。津波火災も発生します。乗用車もトラックも津波に流されています。救急車は呼べません。携帯電話もつながりません。

 足りないものとして、薬、タオル、石油ストーブ、灯油、米、食料、ラジオ、トイレットペーパーなど。

 生徒は全員が無事だったそうです。
 小学校への避難者は、500人ぐらい。
 東北の三月ですから屋外はまだ寒い。
 
 『自助(じじょ。ほかに共助(近隣住民)と公助(役所の援助)があります)』が始まります。
 とりあえず、自分や自分たちのことは、自分や自分たちでやるのです。
 
 沖だし:中村奈緒さんのお父さんは漁師だったので、船を守るために船を沖に出しに行ったそうです。(なんだか、津波が来る中、津波に向かっていくわけで、恐そうです(こわそうです)。実際波に飲み込まれた人もいたようです)。お父さんは無事でした。

5 目を覚ませ、大沢の子(はるみ先生(佐藤はるみ先生))
 避難所になった小学校には先生たちがいました。先生たちはこどもたちのめんどうをみます。
 被災の翌朝(3月12日)、朝6時半に起きて、コイの池に流れ込んでいる沢水(湧き水)で顔を洗います。顔を洗ったらランニングです。ゆっくりランニングをしながら先生はこどもたちのつらい気持ちを聞きます。

6 ぼくらにできること(海渡くん(かいとくん。6年生大川海渡さん。ふた子の兄。将来は漁師になりたい)
 近所のおばさんたちがつくってくれたおにぎりとおみそ汁を飲む。
 避難所は孤立状態にあったので、助けがくるのを待ちます。
 女の子たちは、トイレ掃除を始めました。災害で困るのは、トイレです。水がありません。男子は、コイの池から水を運びます。
 おばさんたちは、ご飯をつくります。みんなで協力します。
 
 大川ヒメ子さんは、こどもたちがつくった『がんばろう』のポスターに心が励まされました。
 
 大川海渡さんのお母さんのお父さんは亡くなり、お母さんのおばあさんとおじさんは行方不明だそうです。

7 肩もみ隊出動!(雅みやびさん(6年生女子 福士雅さん)
 お年寄りの肩を一年生から四年生のこどもたちでもんであげます。
 お年寄りから昔ばなしを聞きます。
 昭和8年(1933年)に三陸津波を体験されたそうです。

 福士雅さんのご自宅は浸水で住めなくなったそうです。

 役場職員さん道又城さん(みちまたじょうさん)は、役場は浸水した。周囲は火の海になった。津波の翌日に大沢地区を訪れた。こどもたちがしっかり動いていたそうです。

8 支援の手(悠太くん(福士悠太さん))
 震災・大津波から三日後、航空自衛隊山田分屯基地(ぶんとんきち)の自衛隊員の人たちが救助・救援に来てくれました。孤立状態の解除です。

 食料不足、着替えなし、お風呂なしでした。

 校長の提案で、避難所で、『朝のあいさつ』の時間が始まる。
 災害で亡くなった方に黙とうをささげて、困難を乗り越えていきましょうと声をだす。

 お祭りのときにこどもたちが舞うのが、『差餌鳥舞(さしとりまい)』だそうです。また、お祭りで神楽(かぐら)の踊り手を見たい。平和な日が恋しい。

 全国から支援の手が届き始めます。自衛隊員、医療チーム、警察官も全国から駆けつけます。
 
 3月17日が、小学校の登校日だった。ひさしぶりに顔をみるこどももいた。
 
 福士悠太さんは、『ありがとう』の感謝を伝えるために、学校新聞をつくりたいと思った。

 85ページまで読んできて、親世代とこども世代の意識の違いについて考えました。
 親世代がこどもだったころ、水道はなかったような気がします。
 なにもかもが生まれたときからそろっている現代のこどもさんにはわからない世界です。不便な生活を体験したことがある親や祖父母の世代は、物がなかった時代に生きたことがあるので、いざ災害時には力を発揮するということはあります。
 昔、水道がなかったことを熊太郎が文章にしたことがあります。データを探したら出てきたので、ここに落としてみます。

 『水道がない』
 (1967年)昭和四十二年までのわたしの体験で、水道が自宅になかったのは、茨城県、福岡県、熊本県に住んだときでした。(父親に放浪癖があって、短気だったこともあり、仕事場で上司や同僚とケンカして仕事を辞めてばかりいたので転校を何回も体験しました。景気のいい時代だったので、どこに行っても仕事が見つかりました)

1 茨城県
 小学校には水道がありました。
 冬が近づいてくると先生から水道の水は少しの量を出しっぱなしにしておくようにと教えられました。
 そうしないと、水道がこおってしまうということでした。
 自宅がある集落には、手押し式のポンプの井戸がたくさんありました。
 奥さんたちの井戸端会議という言葉はここからきたのですね。
 井戸端会議という言葉も今では死語(しご)になってしまいました。
 おふろは銭湯(せんとう)のような大きな共同風呂がありましたが、無料でした。
 茨城県と福島県の県境に近い太平洋側のところで炭鉱でした。
 炭鉱労働者用の風呂で、家族は無料でした。

2 福岡県
 ここには井戸はありませんでした。
 自宅の台所に水をためるコンクリート製のかめがありました。
 水はどうするかというと、バケツを持って近くの山道を少し登り、湧き水が流れているので、それをくんできて、かめに貯めて使っていました。
 集落の中に、小さな共同風呂がありました。
 風呂当番というのがあって、毎日各世帯もちまわりで、風呂をわかす仕事を奥さんたちがしていました。
 夕方4時ころから夜中まで、奥さんたちは自宅とお風呂との間を行ったり来たりしていました。
 トイレは、屋外にあって共同でした。
 小学校に水洗トイレができたとき、朝礼で先生からその使い方を習いました。
 わたしは、学校からの帰り道にのどがかわくと、田んぼのあぜ道の横を流れている用水路の水を飲んでいました。
 そんなわけで、わたしと弟は、学校のギョウチュウ検査などで、時々ひっかかりました。

3 熊本県
 熊本県内で何回か引っ越しをしたので、順番に書くと、最初の場所では、集落に水道が1本だけあったことを覚えています。
 集落に住んでいる人たちみんなで、その1本の水道を使用していたのではないかと思います。
 その地区では、わたしは自分が毎日入浴をしていたという記憶がありません。
 父親の会社の社員用の風呂に入ったという記憶が1回だけあります。
 毎月、父の給料が支給されると、家族4人そろって路線バスに乗って、近くの温泉に入りにいっていたことはよく覚えています。
 次に住んだところでは、山からわき出る清水(しみず)を樋(とい)を使って、台所に引き込んで使用していました。
 そこは農村で、おおかたの家には、つるべ式の井戸がありましたが、わたしの家の井戸は、自宅から山道を1分ぐらい歩いたところにありました。
 井戸の底には、魚が何匹かいて、その魚が死んで浮かんできたら、その水は汚染(おせん)されているからのんじゃいけないということなのかなと今は考えます。
 その家にお風呂(ふろ)があったのかどうか記憶がありません。
 近所の家に、何回か風呂に入りに行ったことがあります。
 それらはみな五右衛門風呂(ごえもんぶろ)と呼ばれるもので、火傷(やけど)しないように、足の裏で板を踏みながら入るもので、こわかったことをおぼえています。
 洗濯は、川でしていました。
 近所の奥さんたちが、せんたく物とせんたく板をもって集まって、川まで行ってせんたくをしていました。
 せんたくが終わるまでの間、わたしは、竹がいっぱい生えていたので、笹舟(ささぶね)をたくさんつくって川に流して遊んでいました。わたしが、小学校1年生ぐらいのときのお話です。
 わたしは、小学校で習った一寸法師(いっすんぼうし)とか、桃太郎とかの話は、本当のことだろうと、その当時は思っていました。

 本にはさんである学校新聞の縮小版を読んでみます。
 『海よ光れ』号外となっています。発行の日付は、令和5年(2023年)です。大沢小学校は、1876年開校(昭和51年)、2020年閉校(令和2年)となっています。寄稿者は、この本にでてくる当時小学5年生、6年生だったメンバーです。みなさんおとなになっています。23歳とか24歳です。
 しっかりした手書きの文章です。みなさん、がんばられました。
 福士悠太さん(役場職員)、福士雅さん(ふくし・みやびさん 看護師)、古久保優樹菜さん(大学生でバスケットボールをしている)、大川海渡さん(漁師)、中村奈緒さん(航空自衛官)、武藤愛さん(実家の食料品店経営)、箱石佑太さん(職業は書いてありませんが、被災時の思い出話が書いてあります)、大川海成さん(警察官)
 当時の思い出とか、コロナ禍のこと、未来は何が起きるかわからないこと、震災・津波から10年少し経って思うことなどが書いてあります。月日がたつのは早いものですが、それぞれご苦労があったとお察しします。

9 卒業式(海成くん。大川海成くん6年生)
 項目はまだ9ですが、全ページを読み終えました。(読みながら感想をつぎ足しています)
 最後の先生の手記を読んで、この本のつくりを観察して、本の内容は、意図的につくってある美談ではないという仕切りに好感をもちました。
 生身の人間、東北弁をお互いにしゃべりながらの気持ちの交流があります。書籍化するにあたっての葛藤(かっとう。本当の本にしていいのか。書かれているおとなになっているこどもたちにマイナスの影響があるのではないか)がありました。関係者のみなさんの了解を得てできあがっている本です。

 さて、項目9からの感想メモです。
 各個人の話になります。
 大川海成くん、6年生、ふたごの弟さんのほうです。全校表現劇、『海よ光れ!』では、鼻たれ坊主のこぞうを演じました。津波のあとは、小学校に泊まって、その後は、親戚の家でお世話になっているそうです。
 6年生の卒業式は、津波の影響で、3月25日に延期になったそうです。
 卒業式に出席した6年生は29人です。29人が6年生全員だそうです。少ない数ですね。
 
 親にとってみれば、こどもというものは、生きていてくれればそれでいいのです。勉強ができなくてもいいし、運動ができなくてもいいのです。親が、小学校の先生に一番望むことは、生きて卒業させてくださいということなのです。

10 2101通の手紙(愛さん。武藤愛さん6年生)
 学校新聞、『海よ光れ!』の第78号をつくる。つくるメンバーは、6年生の武藤愛さん、大川海渡くん、大川海成くん、5年生の福士悠太くんの4人です。
 
 学校新聞が全国大会で表彰されたことがきっかけになって、全国から被災地の大川小学校のメンバーを励ます手紙が新聞社を仲介にして届きます。津波災害が発生した当初、大川小学校の児童の安否がわからなかったそうです。
 2101通ものたくさんの応援手紙が届きました。

11 学校新聞 第78号 『大沢の海よ光れ!』(悠太くん。福士悠太くん。進級して6年生)
 第78号の学校新聞、『海よ光れ!』が発行されました。つくっている最中の4月7日にも大きな地震があったそうです。たいへんです。
 まだ、150人の人たちが小学校で避難所生活を送っているそうです。

12 新聞にこめる思い(優樹菜さん。進級して6年生。古久保優樹菜さん)
 4月20日が大沢小学校の入学式です。震災後、入学式が遅れていました。新一年生は11人です。全校生徒の数は91人です。少ないです。

 5月11日:学校新聞、『海よ光れ』第79号が完成しました。
 お弁当給食だったのが、給食が実施されたそうです。避難所で避難している人たちがつくってくれたそうです。
 こどもたちを午前中で下校させても、家でお昼の準備をできる家庭が少なかったそうです。
 
 こどもたちはずっと、トイレ掃除とお年寄りの肩もみを続けています。
 
 5月31日:学校新聞、『海よ光れ』第80号が発行されました。
 避難所のお年寄りへの感謝があります。こどもたちのために、ぞうきんを縫ったり、畑を耕したり草取りをしてくれたりしたそうです。

13 思いがけないこと(悠太くん。福士悠太くん。6年生)
 学校新聞は、第81号、第82号と発行を重ねていきました。

 三陸鉄道の、『陸中山田駅』のことが書いてあります。
 先日、NHK土曜夜の番組、『プロジェクトX(エックス)』で、被災当時のことが放送されていました。三陸鉄道の沿線では津波で線路や駅や橋脚が流されて、一時は廃線しかないという状況もあったそうですが、みなさん努力されて、三陸鉄道を奇跡が起こるように復活させておられます。人間の力って、すごいなあと思いました。

 全校表現劇、『海よ光れ』は、23年間続いてきた大沢小学校の伝統行事でしたが、震災の年の上演はありませんでした。中止です。運動会もなし。大沢虎舞(おおさわとらまい)もありませんでした。
 
 学校新聞、『海よ光れ』第85号が発行されました。
 大沢の町が少しずつ復興に向かっていることがわかります。
 町の復興ベスト5です。
 1位 店が再開した。(お買い物ができます) 2位 ガレキが片付けられた。(町がきれいになりました) 3位 漁船が増えた。(大沢は、漁業の町なのでしょう) 4位 仮設や建物が建ってきた。(新たな市街地の形成です) 5位 道路が直った。(道路は、人間の血管のようなものです。物流が回復します)

 小学校の復興ベスト5です。
 1位 校庭が使えるようになった。(校庭が使えない小学校はつらい。遊び場がありません) 2位 学校が避難所ではなくなった。(避難者がちゃんと住むところができたということです) 3位 図書館が利用できるようになった。(本読みは、心の支えのために大切です) 4位 (支援)物資がなくなった。(支援の手が少なくなったということはいいことなのです。自活できるようになった) 5位 転校してきた子どもたちが戻ってきた。(同じ土地で育った仲間です)

 2012年(平成24年)1月31日発行の、『海よ光れ』第88号
 来年度児童会執行部選挙特集だった。
 福士悠太くんたち6年生は、3月で小学校を卒業します。
 時間の流れは早いものです。
 佐藤はるみ先生が、学校新聞、『海よ光れ』が、全国新聞コンクールで、内閣総理大臣賞を受賞したことを教えてくれます。

 2月21日、6年生だけで、『海よ光れ』の劇を披露しました。
 あきらめていた修学旅行にも行けました。
 盛岡市での福祉大会で、『大沢虎舞』を披露できました。

『終わりに』
 2019年秋(令和元年)に筆者の田沢五月さんが、多田敢校長(ただ・つよしこうちょう)に話をして、全校表現劇、『海よ光れ』を観劇されたそうです。
 大沢小学校は、その年の年度で閉校になったそうです。大沢小学校の143年の歴史が閉じました。
 学校新聞、『海よ光れ』は、新聞委員会でつくっているそうです。委員会の6年生のメンバーが、三上乃愛(みかみ・のあ)さん始め5人だったそうです。震災のときは、3歳だったそうです。
 最後の新聞:『海よ光れ』第175号です。コロナ禍が始まる頃でもありました。

 2023年(令和5年):出版記念号外、『海よ光れ』発行。23歳、24歳になった昔のメンバーが、号外を発行しました。みなさん故郷や社会に貢献されています。町役場職員、警察官、看護師、漁師、町の商店経営、航空自衛官、みなさん、しっかり地に足を付けて生活されています。学校新聞、『海よ光れ』をつくった体験が、その後の人生に生かされていると、本を読み終えて考えました。

 とかく、いい話として本をつくりがちですが、現実の現場では、ドラマや映画、テレビの放送のように事実や映像を加工することはできないし、加工する必要もありません。
 災害を利用して利潤の追求をする悪意の人や組織もいます。
 本の内容は、現実的な内容で、飾らない出来事の記述が良かったと思います。また、筆者自身も故郷が山田町のお隣だそうで、実感のこもったレポートでした。取材を申し込んでも、まだ津波の話はしたくないという人の存在もリアルでした。身内や親族を失うような、よほど悲しい思いを体験されたのでしょう。  

Posted by 熊太郎 at 07:25Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年05月03日

東野・岡村の旅猿25 函館でイカ食べまくりの旅 

東野・岡村の旅猿25 函館でイカ食べまくりの旅 TVer(ティーバー)とかHulu(フールー)とか。

 ゲストは、ずん飯尾和樹さんです。
 ずん飯尾さんは先日出川哲朗さんの充電させてもらえませんか?に出ていたし、その後、動画配信サービスの邦画、『沈黙のパレード』で、娘が殺害された父親役で好演技を観ました。今回は、北海道ロケです。

 イカの産地と言えば、北海道函館と佐賀県呼子(よぶこ)です。佐賀県は以前旅猿で行ったことがあるので、たしかイカの料理も食べていましたから、今回は函館なのでしょう。函館は雪景色です。3月上旬でまだ寒いそうです。

 函館には行ったことがありません。映像を観ながら自分も行ったつもりで楽しみます。
 函館空港から始まって、スタッフは雪のため前日に東京から新幹線で4時間半かけて函館入りしたそうです。(悪天候がらみの飛行機の都合のようです)でも、4時間半で行けるなら遠くはありません。

 撮影用の専門用語が出てきます。
 『車両で行きます』演者が車で移動するということでしょう。旅猿では演者がレンタカーを運転することが多いのですが、『車両』というときは、演者は同乗するだけで運転はしません。
 もうひとつの言葉が、『前乗りする』。これは、ロケのために前日からホテルに泊まるという意味だろうととらえています。前乗りは楽だけれど、早朝からのロケになるのはイヤだみたいな話が出ていました。

 さて、おいしいイカ料理が続きます。
 『活イカ踊り丼(かついかおどりどんぶり)』。醤油をかけると、イカが動きます。まだ生きているようです。
 食事のあとは、市場の釣り堀でイカを釣るというか、イカに針をひっかけてもちあげるようにしてイカを釣り上げて、その場で刺身にしてもらいます。秒殺でイカが釣れます。
 次回は、『青空クッキング』をするそうです。

(つづく)
 
 なにせイカざんまいです。イカを料理して食べる映像が続きます。
 ひたすらイカを食べます。
 ほかに、カニ、シャケ、ホッケなどの映像も見えます。

GLAY(グレイ)というロックバンドを自分は知らないので実感がないのですが(共働きの子育てを必死でしていた何十年間かは仕事と子育てに専念していて、社会から隔離されていたような状態でした)、GLAYは函館出身の人たちで、旅猿メンバーは、シエスタハコダテという建物の中にある記念館のようなところを訪れます。レリーフ(彫刻風の像)の前で記念写真を撮って、からくり時計を見学しました。

 防寒具を購入して、郷土料理のお母さんたちから、イカを材料にした郷土料理を教わります。
 屋外での撮影です。お母さんの語り口がおもしろい。
 青空キッチンですが、お母さんが、外で料理風景を撮影するのは初めてだと言います。(スタッフの依頼だからという言葉がそのあともいろいろ出てきます。ふつうのパターンじゃない撮影だったようです)
 イカが泣いている。(じっさいキュキュとイカが音を出していました)
 わたしもこどものころ、漁村の近くで暮らしたことがあるのですが、お母さんがイカをさばく映像を見て、ああ、そのシーンを実際に見たことがあると思い出しました。
 みなさん、イカの皮むきがじょうずです。岡村隆史さんが料理じょうずです。
 刺身にしない部分は煮つけにします。

 スルメイカ焼きを海辺の岩場で、そのへんにあった大きな石を雪でふいたところに置いて、金づちでたたいて食べます。郷土料理です。
 イカ飯(めし)もつくります。イカの体にもち米を入れて煮込みます。麺つゆ(めんつゆ)、砂糖、みりんを入れます。1時間煮込むそうですが、ディレクターの指示で、すでにできあがったものと差し替えます。
 雪が降ってきました。寒そうです。みんな早く撮影を終わりたい様子が伝わってきました。
 次週は、塩辛づくりを放送するそうです。楽しみです。

(次の放送回)

 なんというか、ずん飯尾さんの発言にあるとおり、イカをテーマにして、短時間にあちこち動き回って、イカ、イカ、イカを食べる内容で、飯尾さんいわく、『詰め込み過ぎ』です。
 もうイカ、いいんじゃないという声が聞こえました。飯尾さんが、『オレ、夜、ハンバーグ食べたい』と言います。(でも、イカ料理が待っています)

 イカの塩辛製造工場をたずねて、仕上げの作業を体験する三人です。
 おいしくな~れ、おいしくな~れといいながら、たるの中にある大量のイカの塩辛に、棒を突っ込みながら、空気を送る作業をします。(おいしくな~れは、俳優である藤岡弘さんの決めゼリフだそうです)

 イカの塩辛のアヒージョ:オリーブオイルとにんにくで食材を煮てある。
 日本酒がおいしいそうです。
 
 函館なので、外は雪が積もっています。
 イカようかんとか、イカチョコレートとかがあるお店へ移動します。
 函館市内をあっちへ行ったり、こっちへ戻ったり、たいへんです。

 イカのてんぷら、イカのから揚げ料理を自分たちでつくるそうです。
 キッチン付きのお宿に到着しました。
 次週の放送が、今回の旅の最終回だそうです。
 ああ、なんと忙しい詰め込みの内容でしょうか。

(次が、今回の旅の最終回の放送です)

 最終回を観ました。なんというか、最後まで、イカざんまいでした。すごいなあ。

 ずん飯尾さんがつくったのが、コロッケ(イカの塩辛のせ。同時に食べると味はよくなかったので、別々に食べたほうがいいそうです)、イカのてんぷら、ゲソのから揚げで、岡村隆史さんがつくったのが、イカのお寿司(うまくいきませんでした)、それから東野さんが、メッセンジャー黒田さんに教えてもらったイカ焼きそば(これはうまかった)をつくりました。

 岡村隆史さんのイカ寿司は、プラスチックケースにごはんを詰めて握りずしの貫(かん)を型どってつくり、なんと味塩をふりかけて、イカの刺身をのせて、チューブからしょうがをのせました。。おいしくないのも無理ありません。岡村さんが、寿司が、四角いなあと嘆いていました。
 イカ寿司についてのまずそうなコメントが良かった。食レポ番組で芸能人が、『おいしーー』と笑顔をつくるシーンは、もう見飽きました。
 イカのてんぷらはうまかったそうです。ゲソのから揚げは、拍手が出るほど良かったそうです。居酒屋だと硬いイカのてんぷらが出るけれど、ずん飯尾さんがつくったものは、やわらかくて味も良かったそうです。
 
 スタッフから、函館山からの夜景をこれから見にいきませんかと提案がありましたが、三人ともイヤそうな顔をしてぽしゃりました。見ていたわたしも同感です。おいしいものを食べたからもう横になりたいでしょう。夜景は、映像で見るだけで行った気分になって、きれいだねーーでいいです。メンバーもわたしも、もう若い時のような元気はありません。
 岡村隆史さんが、『夜景は、別班(べっぱん)で(行ってください)』と言いました。ドラマ、『VIVANT(ヴィヴァン)』にひっかけてあります。VIVANTの意味合いは、『別班』です。秘密の組織、グループのことです。

 北島三郎さんがらみの『坂』の紹介がありました。絶景で、坂の上から港や海が見えました。地上は雪景色でしたが、お天気は晴れているようすでした。北島三郎さんが通っていた高校の通学路だそうです。

 撮影最後の食事は、イカのパスタでした。ナポリタン(イカ墨入りとイカ墨なしの2種類)、ずん飯尾さんは、『イカ薫る(かおる)しょうゆラーメン』でした。ラーメンがおいしそうに見えました。
 
 びっしりイカがらみのロケでした。
 東野幸治さんが言うとおり、大成功で良かった。
 
 まあ、観終えて、当分は、三人ともイカは食べなくていいなあというご気分だったでしょう。
 次回は、ランジャタイをゲストに迎えて、富山だそうです。元旦に能登半島地震が起きたところですが、さて、どうなりますか。  

2024年05月02日

ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ)

ニワトリと卵と、息子の思春期 繁延あづさ(しげのぶ・あづさ) 婦人之友社

 2021年発行の本です。(令和3年)
 当時ご家族は長崎県長崎市住まいで、ご主人と高校一年生のご長男(お名前は、「あやめ」)、中学二年生の次男(「葵」あおい)、小学二年生の長女さん(お名前はわかりませんが、「あげちゃん」です)の5人家族です。著者の職業は、写真家で女性です。
 本に書いてある内容は、2017年(平成29年)夏から始まっています。長男さんは、小学6年生でした。次男さんが、小学4年生、長女さんは、まだ幼稚園年長ぐらいです。(45ページに、4歳とありました。年少ですな)

 表紙をめくるとカラー写真があります。
 ニワトリが4羽と長男さんだろうか。
 長崎での写真の雰囲気は、昭和40年代の、いなかです。ニワトリのエサは、そのへんに生えている野草に見えます。
 以前テレビで観た東野&岡村の旅猿で、長崎が旅先だったのですが、ゲストで出ていた平成ノブシコブシの吉村崇さん(よしむらたかしさん)の言葉を思い出します。吉村崇さん『(自分は)なんで東京になんか住んでいるのだろう。こんなおいしいものが地方にはいっぱいある』、おいしい物を食べて、美しい景色に囲まれて、人情がいっぱいの人たちのそばで暮らしを送る。長崎には人と自然の幸(さち)がたくさんあります。

 次のページの写真は、三人のこどものちいさな手のひらにのせたニワトリの卵があります。手の中に、『命』があります。
 その次のページには、ニワトリの成鳥の写真があります。わたしはまっさきに、『鶏のから揚げ(とりのからあげ)』が思い浮かびました。おいしいです。

 序章から始まって、第1章から第4章まで、そして、あとがきです。
 読み始めます。

『序章 2017年夏』
 自立したいという、お子さんの反抗期の始まりがあります。
 これまでは、おかあさんの言うことをきいてきた。でも、これからは、おかあさんのいうことをききたくないのです。母は母で、どう対応したらいいのかわからず悩みます。まっこうからダメと言えなくて、条件闘争になったりもします。(そうしたかったら、こういう条件をのみなさいというパターンです)
 『お母さんがなんと言おうと、オレは放課後ゲームを買いに行く!』
 強い主張があります。オレの人生はオレのもので、お母さんのものではない。オレの人生をお母さんが支配することはできないというこどもさんからの強い主張が母親に対してあります。オレのことはオレが一番わかる。オレのことは、お母さんにはわからない。

 ゲーム機を買うと吠えていた(ほえていた)ご長男が、ゲーム機ではなく、ニワトリを買ったというところがおもしろいエピソードです。理由は、卵がとれるからでした。

 経済動物・産業動物:人間の食べ物になるための動物。反対言葉が、愛玩動物。

 ニワトリを買って育てることは、人として、健全な志向です。なんの問題もありません。

『第1章 ニワトリがやってきた』
 登場される人たちとして、
 剛君:著者の友人。山の上でカフェを営んでいる。養鶏体験あり。馬(対州馬(たいしゅうば。長崎県対馬(つしま)の馬)、ヤギ、犬、猫と暮らしていて動物好き。

 小野寺睦さん:剛君の友人。養鶏家。ニワトリを5羽長男に分けてもらった。

 弥彦さん:烏骨鶏(うこっけい)を長男に分けてもらった。

 自然卵養鶏法(中嶋正著 農山漁村文化協会刊):養鶏の本
 烏骨鶏(うこっけい):ニワトリの一品種。烏骨は、黒い骨という意味。皮膚、骨、内臓などが黒い。

 内容は、しっかりとした文章で書いてあります。
 
 ケージに土を入れたら、ニワトリのトイレの臭いが消えた。

 蹴爪(けづめ):ニワトリの足で、後ろに突き出た爪のようなもの。
 鳥は恐竜の子孫。そういう話は、なにかの本で読んだことがあります。

 ニワトリの卵の話をこどもさんとしていて、実は自分が流産の体験があることをポロリとこどもに話したお母さんです。こどもさんが、あのとき自分は5歳だったと思い出話をします。いい人生教育です。

 読んでいて自分のことで思い出したことがあります。
 自分は7歳のころ、農業を営む熊本県の父方祖父母宅で暮らしていました。農耕用の牛を飼っていました。身近にニワトリの卵があったことからおそらくニワトリも飼っていました。物々交換の風習がありました。こどもであったわたしは、おそらく祖母に言われて、ニワトリの卵をよその家に持って行って、その家にある冷蔵庫の氷と交換してもらっていました。

 料理で出る野菜くずが、ニワトリのエサになる。ゴミだったものが、ゴミではなくなったそうです。

 ニワトリに愛着がわいた4歳の長女さんが、ニワトリに名前を付けようとすると、5年生の長男が、家畜に名前を付けてはいけないと自分の意見を言います。うちのニワトリは、愛玩動物(あいがんどうぶつ。ペット)ではない。名前を付けると愛情が芽生えて食べるために殺すことが苦痛・苦悩になるからです。
 長男は、ニワトリが卵を産まなくなったら、つぶして食べると言います。(つぶす:殺す)
 ここで思い出す作品がふたつあります。
 『食堂かたつむり 小川糸 ポプラ社』
 『ブタがいた教室 邦画 日活㈱』
 小説、『食堂かたつむり 小川糸著』では、言葉を失ったシェフの倫子(りんこ)さんが、エルメスと名付けた豚ちゃんを愛情込めて育てて、最後に自分でエルメスを捌(さば)いて食べます。
 『ブタがいた教室』は、実話の映画化です。本は、『豚のPちゃんと32人の小学生 命の授業900日 ミネルバ書房』です。その本をもとにつくられた映画、『ブタがいた教室』では、小学生26人がPちゃんと名付けた豚を愛情を込めて育てたのですが、倫子さんのようにはいきません。食肉にすることがそうそう簡単にはできません。こどもたちは、迫真の演技でした。

 自立心が強いご長男とお母さんとの対立話があります。
 ご長男がちっちゃな家出を繰り返します。

 兄弟はケンカをしますが、おとなになって、歳をとるとたいていの兄弟は、ケンカはしなくなります。それぞれが自分の世界をもちます。

『第2章 ニワトリのいる日々』
 この2章までを読み終えて感じたことは、この本は、こどもの自立、自活、成長の本です。
 長男さんは、自分でお金を稼ぎたい。実業家の面があります。親から離れて自活していきたいという気持ちが強い。こどもさんは、なかなかたいした人物です。読んでいると、こどもさんのほうが、お母さんよりもおとなです。息子さんは、必要があって、歯を食いしばって、ニワトリを殺す作業もやりました。
 ニワトリの飼育は、ニワトリをペットとして扱うのではなく、利益を生む事業として扱っています。
 卵を販売する。養鶏業(ようけいぎょう)です。数羽のニワトリは、家族では食べきれないぐらいにたくさんの数の卵を産むようになります。
 読んでいてふと思い出したことがあります。わたしも母方の実家がある福岡県にいた中学生のときに、ジュウシマツを繁殖させて、生まれてきたジュウシマツのこどもたちを売りに行っていました。ジュウシマツは夫婦仲がいいので、どんどん卵を産んで、ヒナをかえしていきます。わたしは、鳥小屋をつくって、たくさん生まれてきたジュウシマツたちを売りに行っていました。井筒屋という百貨店の小鳥コーナーとか、住んでいた町内にあった小鳥屋のおじいさんが買い取ってくれました。一羽120円ぐらいで買ってもらえました。最初は、『小鳥買います』みたいな表示が、店舗にしてあったことがきっかけでした。お店で売られるときは一羽780円ぐらいだったという記憶です。当時は貧乏な母子家庭だったので、とにかくお金が欲しかったことを覚えています。
 こちらの本の長男さんは、まだ中学生ですが、ニワトリでもうけたお金で、今度は株式投資を始めました。ジュニアNISA(ニーサ)の活用です。わたしは、ジュニアNISAというものがどういうものか知りませんが、ご長男は口座を開設して、株式投資の研究を始めます。(ジュニアNISAの制度は2023年で廃止になっているようです)

 仄見える:ほのみえる。(読めませんでした。ほのかに見える。かすかに見える)
 ボリスブラウン:飼っているニワトリの銘柄
 
 今度は、ヒヨコを仕入れに行きます。
 かわいいヒヨコが4羽加わりました。

 オツベルと象(ぞう):宮沢賢治作品の童話。オツベルという地主が、大きな白い象をだましてこきつかう。それを知った象たちが、オツベルの邸宅になだれこんで、オツベルをつぶしてしまう。
 ビオトープ:野生生物が生息する空間。

 長男さんは、養蜂(ようほう)にも興味を持ちます。お母さんが思いとどまらせます。蜂が飛んで、近所迷惑になると思ったからです。
 とりあえず、養鶏と株式投資です。

『第3章 “食べ物”は“生き物”』
 ジビエというのでしょう。東京中野区から長崎市へ引っ越しをしてきた経過などが書かれたあと、地元の猟師と友だちになって、野生動物の肉(イノシシとかシカとか)をもらって料理を始めたことが書いてあります。
 その部分を読みながら、自分の体験として思い出したことがあります。この本に出てくる地元の人と同じく、うちの両親も九州出身です。素行や考え方が、共通するのです。動物はペットではなく、食べるものという意識が同じです。
 わたしは、小学生の頃は動物が大好きでいろいろ飼っていましたが、ほとんどを両親に食べられてしまいました。そんなことを文章にしたものが、データで残っていました。文章をつくったのはもう何十年も昔のことです。ちょっとここに落としてみます。

『ぼくのペットは、両親にとっては、おかずだったこと』
 小学生だったこどものころ、わたしは、たくさんの動物を飼っていました。
 しかし、戦前戦後の食糧難(しょくりょうなん)の時代に育った両親は、愛玩動物(あいがんどうぶつ。ペット)という感覚はまったくもっておらず、動物は食べるために飼うという習性が身についていました。
 以下、その犠牲(ぎせい)になった、わたしのペットたちを紹介します。
1 鳩(はと)
 夕食時、こたつの上に、どーんと置かれた鍋の中に、プカーっと大きな見慣れぬ肉のかたまりが浮いていました。
「これ、何の肉?」とわたし。
 両親が声をそろえて「鳩」
 ガーンとくるわたし。
「ぼくは、食べない!」
「どうして?」と父。
「こっちがどうして、と言いたいわ!」
「好き嫌いはいけない」と母。
「食べない!」
 わたしが、つがいで飼っていた鳩の片方を両親に食べられました。
 そして、しばらくして、もう1わも食べられてしまいました。
「卵を産んだら、卵も食べてみるつもりだった」と父。
 バカヤローー わたしは、父が嫌いでした。

2 うさぎ
 数匹飼っていました。
 餌ははっぱで、小学校から帰って来てから、山へ、餌になる草を取りに行っていました。
 うさぎは、ころころっとした糞(ふん)をするので、わたしはせっせと掃除をしていました。
 それは、わたしが原因でした。
 うさぎを両手でだいていたところ、うさぎがバタバタっとあばれたので、思わず自分の両手を広げてしまいました。
 うさぎは地面に落ちて、そのまま死んでしまいました。
 ふつうは、それから土をほって、死んだうさぎを土にうめて、お墓をつくります。
 両手をあわせて、悲しいお別れ…… というすじがきなのですが、わがやの場合は、ちがっていました。
 うれしそうな父。
 もうだめだと、わたしは、あきらめました。
 父は、うさぎをもっていくと、料理のしかたを考えるそぶりをみせました。
 わたしは、もう悲しくて、家の外に出て、ひたすらなわとびをしました。
 前とびを延々(えんえん)と、とびました。
 悲しい、くやしい、にくい。
 そんなことを考えながら、とびつづけました。
 このままでは、ほかのうさぎたちも親に食べられてしまう。
 危機感をいだいたわたしは、友だちをあたり、残ったうさぎを飼ってくれるように頼みこみ、ひきとってもらいました。

3 亀
 けっこう大きな亀を、わたしは飼っていました。
 甲羅(こうら)のふちっこに錐で(きり)で穴を開けて、穴に針金を通し、針金の先を地面に打ち込んだ杭(くい)につなぎ、亀を家の前を流れる浅い溝に放していました。
 餌は、溝の上流から流れてくる生活排水である残飯(ざんぱん)のくずでした。
 ある夜、父の友人が、家に遊びに来ました。
 そのとき父が、
「亀を食べると、長生きできる。亀をさかさづりにして、首をスパンと切り落として、流れ落ちてくる血をコップに入れて、亀の血を飲み干すと、長生きのいい薬になる」と友人に話をしていました。
 わたしは、不吉な予感がしました。
 数日後、わたしのペットの亀はいなくなりました。
 母に言いました。
「亀がいない!」
「逃げたんじゃないの」
(違う! オヤジが食っちまったんだ)

4 あひる
 わたしは、お祭りの縁日で買って来たそのあひるくんを、本当に本当に心をこめて育てていました。
 当時、アンデルセンの『みにくいあひるの子』を読んで涙したわたしは、そのあひるくんを大切に育てていました。
 しかし、大事に育てすぎて、死なせてしまいました。
 ある日、川のそばを流れる用水路で、たくさんのおたまじゃくしを見つけたわたしは、愛するあひるくんに食べさせてあげようと、大量のおたまじゃくしを捕まえてきました。
 そして、それらを、あひるくんに食べさせました。
 あひるくんは、喜びながら大量のおたまじゃくしを食べました。
 それから、あひるくんは、元気がなくなり、動かなくなり、数日後にひっそりと息を引き取りました。
 そして、父の登場です。
 さばくんですよ。
 あひるの首を包丁で。
「ほら、こんなに、おたまじゃくしが、のどにつまっている。窒息死だな」
 また、夕食のお鍋に肉のかたまりが浮いていました。
わたしは、胸がつまって、あひるどころか、ごはんつぶひとつも食べることができませんでした。

5 犬
 わたしによくなつく白い野良犬(のらいぬ)がいたので、家に連れて帰りました。
 わたしは、その犬に『ブタ犬』という名前をつけて飼い始めました。
 体が白くて、鼻が赤くて、ブタみたいだったからです。
 父が、
『戦時中は、犬も食べたなあ。赤い犬は、食べることができるんだよ』
(おまえは、犬も食べるのか!)
 わたしは、恐怖(きょうふ)を覚えて、ブタ犬を逃がすことにしました。
 でも、心配はいりませんでした。
 ブタ犬のほうが、先にそのことに気づいたのか、わたしの家から逃げてしまいました。
 小学校から帰ると、家にはブタ犬はもういませんでした。
 数日後、集落のはずれでブタ犬を見つけたので、わたしはブタ犬に、何度も声をかけましたが、(フンとした表情で横向きで)無視されました。

 長くなってしまいました。
 本の感想に戻ります。
 2011年(平成23年)東日本大震災を東京都中野区で体験して、そのあとの理由がふあ~とされた感じなのですが、地方への移住を考えたそうです。いろいろ地方を見て回って、場所を長崎にしたそうです。とくだん、長崎に親戚がいるということもなく、見て回ったときの印象が良かったそうです。
 長崎は、坂の上にたくさん家が建っていて、車を横付けできるスペースがないのですが、地元の人が不便だと感じることを、東京暮らしをしていたご夫婦にとっては、快適な空間だったそうです。
 不便なだけ、住民同士の距離が近いそうです。気持ちのもちかたの話です。声をかけやすい。声をかけられやすい。ものをもらったり、あげたりすることが楽しい。

 ベルベット:毛足の長い織物。光沢がある。

 母親と長男で、雉(キジ)を捌きます(さばきます)。迫力に満ちています。

 しっかりした文章ですが、書いているお母さんは、ちょっと理屈っぽい人でもあります。

 ここまで読んできて、今年読んで良かった一冊になりました。

『第4章 家族、この儘ならぬ(ままならぬ)もの』
 コロナ禍だったときのことが書いてあります。
 ご主人は職を失っておられます。長い在宅期間があって、どうも、これから先、ご家族で養鶏を目指されるような内容で終わっています。
 ご長男は、実業家タイプです。まだ中学生の時から株式投資に目覚めて、農業関係の業種に投資先としての目をつけておられます。あわせて、コロナ禍の時は、株の暴落を体験されています。
 ご長男の立場になってみると、生まれてから、勝手なことをする両親に振り回されているという不満はあられるかとは思います。東京の中野区にいたのに、長崎の山の中に連れてこられて、大きな環境の変化があったわけで、こずかいせんももらえず、自分で考えてお金をゲットしなければ、ほしいものも買えないという状況でした。

 夫から妻に電話があって、『(コロナ禍の影響があって)退職することになりそう』と話があります。
 中学生の長男が、『うちはなんでこんな不安定なんだよ!』と怒鳴り(どなり)、『子どもを養うのが親の務めだろ』と言います。
 その部分を読んでいて思い出したことがあります。
 自分がまだ四十代はじめだった頃、仕事でおもしろくないことがあって、家で家族がそろっているところで、『こんな仕事辞めてやる!』と大声で怒鳴った(どなった)ことがあります。
 その後、しばらくたって、まだ小学校中学年ぐらいだった息子から、『あの時、本当にお父さんが仕事を辞めたら、これからさきうちは、どうやって生活していくのだろうかと不安だったよ』と聞かされて、すまなかったなと思ったことがあります。(がまんして、仕事は辞めませんでした)

 長男さんはプチ家出を繰り返されて(公園で一夜を過ごすとか)、なかなか波乱万丈なご家庭です。中学生の長男さんが通っているのは、中高一貫教育の私立の学校なので、高校受験がないぶん、気持ちがあせらなくてすんだということはあります。(以前読んだ本に似たようなことが書いてありました。『喫茶店で松本隆さんから聞いたこと 山下賢二 夏葉社』 なによりもだいじなものは、『時間』。私立学校だったので大学受験がなかった。エスカレーター式(中学から大学まで内部進学できる)だった。受験勉強をしなくてよかったので、自分が自由に使える『時間』があった。時間を有効に使う。時間をムダにしない)
 受験勉強に大量の時間を使うよりも、もっとほかのことに時間を使ったほうが、青春時代にとっては有益なのです。

 なかなか厳しい長男と父親の対立があります。
 (失業した父親に向かって長男が)『仕事もなくて、お父さんはあわれだよな』(いくらなんでも、言ってはいけない言葉です)

 インターネット中毒のような話も出てきます。父親はスマホ、長男はパソコンです。そうやって、互いにぶつからないよう別々の世界をもちます。

 読んでいるうちに、名作ドラマ、『北の国から』を思い出しました。父親である黒板五郎(田中邦衛さん(たなかくにえさん))と長男である純(吉岡秀隆さん。まだ小学校低学年のこどもでした)が対立します。純は、北海道富良野(ふらの)から生き別れになった(離婚後の)お母さんがいる東京に帰りたいのです。
 
 プチ家出をした中学生の長男さんを地域社会が見守ります。田舎のいいところです。都会だと知らん顔で警察頼みです。

 儘ならぬもの:ままならぬもの。思うようにならない。
 後半部は、正直な母親の苦労を語られています。ふつう、心の奥底で、人に言うことは、はばかるような(思いとどまる)ことを書かれています。
 (3人の)兄弟妹間で、区別(差別ともとれる)する扱いを自分はしていた。自分の心の中に、『鬼』がいた。
 ほかの人の話で、泣き止まない(やまない)こどもを、マンションから落とそうと思ったことがあると書いてあるのを見て、自分も思い出したことがあります。
 まだ、こどもがあかちゃんだったとき、生後半年ぐらいからひどい夜泣きが毎晩続き、心身ともに憔悴(しょうすい。疲れ果ててやつれる)したことがあります。真夜中、台所があるリビングで、泣きわめくあかちゃんを抱いてあやしながら、発作的に、床にたたきつけたいと思ったことがあります。たしか、翌日職場で先輩にその話をしたら、自分はそういうことはなかったけれど、あかちゃんの夜泣きは、半年ぐらいがまんすれば、ぱたりとなくなるし、それから一年もすれば、あかちゃんが夜泣きをしていたことも忘れてしまうよと言われたことを覚えています。じっさいそのとおりになりました。
 親というものはつらいものなのです。子育てには、気が遠くなるほどの忍耐の積み重ねが必要です。世代交代しながら、順繰りで体験をして、人生とは、こういうものだということを味わうのです。
 長男の家出がやまったら、こんどは、次男が小さな家出をしたそうです。なかなかたいへんです。  

Posted by 熊太郎 at 06:23Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年05月01日

おじいちゃんがおばけになったわけ 絵本

おじいちゃんがおばけになったわけ キム・フォップス・オーカソン文 エヴァ・リリクソン・絵 菱木晃子・訳 あすなろ書房

 先日読んだ本を思い出します。
 『ことばのしっぽ 「こどもの詩」50周年精選集 読売新聞社生活部監修』
 小学一年生の男児が、ゆうれいを見てみたいと言ったら、祖父と祖母が、自分が死んだら、ゆうれいになって出てきてあげると言ったそうです。小学生のぼくは、それが、楽しみですと言っています。(笑いました。おじいちゃんとおばあちゃんのゆうれいならこわくありません。おこづかいをくれるかもしれません)

 さて、こちらの絵本です。
 デンマークの作家さんの本です。スウェーデン生まれの絵描きさんです。
 
 熊太郎もおじいさんなので、最初の絵は、おんなじだという気持ちになります。
 男の子とおじいさんが並んで座っています。
 熊太郎じいさんは今でも覚えています。
 最初の孫の男の子がまだ2歳ぐらいのころ、うれしそうにそわそわと熊太郎じいさんのお隣に座っていたことを、なかなかいい感じだったと覚えています。血がつながっているから、なんとなく気持ちがわかりあえるのです。三月末に最終回を迎えた金曜夜のドラマ、『不適切にもほどがある!』の祖父と孫娘の関係にも似たものがあります。

 エリック:男の子。6歳ぐらいに見えます。
 エリックは、おじいちゃんが好きだったけれど、おじいちゃんは、道で倒れて死んでしまったそうです。
 エリックは、悲しくて、いっぱい泣いたそうです。(ありがとね)

 おじいさんのお葬式です。
 うちの孫たちは、ひいおじいさんと、ひいおばあさんのお葬式に来てくれました。
 仏教系の幼稚園に通っていたので、経典(きょうてん)を開きながら、お坊さんと一緒に、じょうずにお経(きょう)さんをあげてくれました。(ありがとね)

 むずかしい事情が発生しました。
 亡くなったじいじは、この世に心残りがあって、天国にも行けないし、土にもなれないそうです。
 そうです。ゆうれいになって、空気中を、ただよっているのです。
 じいじは、どういうわけか、背広でネクタイ姿です。(仕事人間なのか)
 
 挿絵の(さしえの)絵は、洋画みたいです。
 
 『この世にわすれものがあると、人はおばけになるよ』
 
 人生というよりも、人の歴史です。

 おじいさんは、なにかが心残りで、成仏(じょうぶつ。仏さまになる。悟りを開いて(さとりを開いて)仏さまになる)できないのでしょう。

 こどもさんの絵を見ていて、自分にもこれぐらいの年齢の時があったことを覚えています。
 小学校低学年のときは、まだ体もそれほど大きくありませんが、自分がそのくらいの年齢のときは、もうおとなの気分でした。
 絵本の中では、おじいさんから孫にいろいろなことについてお話があります。
 (なんとなく、癌で余命を告知された人が、遺る(のこる)人に伝言をしているようでもあります)
 伝え終われば、きちんと、『さよなら』のあいさつをして、さよならをする。

 冷静に考えて、死んだ人にはもう感情はありません。
 この世に遺された人(のこされた人)が、ふんぎり(思い切った決心とか割り切りの気持ち)がつかないから、こういった作品群がこの世にあるのです。

 別のこととして、孫が祖父母になつくためには、祖父母にはそれなりの努力が必要です。
 祖父母というだけでは、孫は祖父母になついてはくれません。おもちゃを買ってあげたり、おいしいものを食べさせてあげたり、おこずかいをあげねばなりません。からだを動かして、いっしょに遊ぶことも必要です。
 なにをやるにしても、ぼーっとしているだけでは、なにもできあがりません。

 祖父母からの願いとしては、こどもや孫というものは、ただ、生きていてくれれば、それでいい。わたしはそう思っています。

(その後)
 類似の作品をひとつ思い出しました。
 『青空のむこう アレックス・シアラー 金原瑞人(かねはら・みずひと)・訳 求龍堂(きゅうりゅうどう)』
 死んでしまった少年の話です。イギリスの小説家の児童文学作品です。
 ハリー・デクランド:交通事故死した少年。サッカーが好き。10歳から12歳ぐらいに見える。死ぬ前に姉のエギーとけんかをしていたことを、死んでから後悔している。とても後悔している。捨てゼリフを姉にぶつけて家を出て、そのあと交通事故にあって死んでしまった。自転車に乗っていて、10トントラックにひかれた。
 『…… お姉ちゃんなんか大嫌い! …… 帰ってくるもんか。もう二度と会いたくない』、姉のエギーが、『じゃあ帰ってこないで』と言い返したのが、この世の姉との会話の最後だった。(つらい話です。現実でも起きることです。家から出かける時は、ケンカしないほうがいい。本当に、それが最後になることがありえます)  

Posted by 熊太郎 at 07:10Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年04月30日

テーブルマナーの絵本 髙野紀子・作

テーブルマナーの絵本 髙野紀子・作 あすなろ書房

 本のカバーも本体表紙も絵がきれいです。こどもさん向けの絵本です。
 食べ物や食事をするときの道具が美しく描かれています。

 登場してくるのは、くまさんやうさぎ、きつね、たぬきなどのキャラクターです。

 ごはんを食べるときのマナー(礼儀作法)を教えてくれる絵本です。

 表紙をめくると、ごはんのふたは左に、おみそ汁のふたは右にと書いてあります。(そうか、自分はこれまで間違えていなかった。ほっとしました)

 くまさんの(たぶんクマだと思います)おばあさんが、マナーを教えてくださいます。

 13ページにある、『手で持って食べる器』に、日本そばのつけ汁、さしみなどのしょうゆ皿、てんぷらのつけ汁の器があって、手で持って食べていもいいということを知りませんでした。

 14ページに、『返し箸(はし。箸の上で食べ物をとって配る)』は、よくないことですというのも初めて知りました。やめましょうとあります。

 15ページ、江戸前ちらし寿司のばあい、寿司ネタを小皿のおしょうゆにつけながら食べるということも知りませんでした。熊太郎じいさんは、長いこと生きてきましたが、まだまだ知らないことがたくさんあります。
 うな重のふたは、器の下にしいてもOKだそうです。

 17ページには、ざぶとんの座り方が書いてあります。ざぶとんの手前にすわってから、両手で体を支えながら前に進んで座るそうです。ふむふむ、なるほど。

 こどもさん向けのマナー本です。
 食事時にやんちゃやっちゃいけないと教えます。
 まわりにいる人たちに迷惑をかけちゃいけないのです。
 まず、『和食』、次に『洋食』、それから、『外食』と項目が分かれています。

 焼き魚の食べ方が役立ちます。
 頭の後ろからしっぽに向かって食べる。次に骨をはずして、骨を上に置く。次に左側から反対側にある身の部分を食べる。なるほど。

 あいさつもちゃんとする。『いただきます』、『ごちそうさま』です。

 お箸(はし)の持ち方の説明もあります。

 日本茶の入れ方・飲み方、くわえて、和菓子の食べ方もあります。

 もう1回あいさつの説明があります。よその家に行ったときのあいさつです。
 『こんにちは!』、『ありがとうございます』、『さようなら』
 
 こちらの絵本は、マナーだけではなくて、お料理の本でもあります。お菓子づくりの説明も少しあります。

 カトラリー:洋食で、ナイフ・フォーク、スプーンなどのことを、カトラリーというそうです。

 洋食の食べ方は、熊太郎のにがてな世界です。
 洋食のマナーは、読んでいるだけで疲れてきました。

 外食のマナーがあります。
 ルールがいっぱい書いてあります。
 『回転寿司店』でのことが、書いてあります。
 以前、SNSの投稿で、回転寿司店でひどい迷惑行為をした高校生が、お店や世間の人たちから、徹底的にたたかれたことがありましたが、この絵本を読んでおけばよかったのにと思ったのです。こどものうちに、絵本をしっかり読んでおくことはだいじなことです。

 裏表紙を見ました。
 まんなかにお皿があって、左右にフォークとナイフがたくさん並べてあります。
 外側に置いてあるものから使うそうです。
 そういうレストランに行ったことが何度かありますが、もうずいぶん前のことで、どこからナイフとフォークを手にしたのか覚えていません。
 結婚式に呼ばれて行ったときかもしれません。
 もう歳をとってきたので、最近は、結婚式よりもお葬式に行くことのほうが増えました。

 手を洗う、『フィンガーボール』のことが出てきました。
 たしか、小学生の頃の道徳の授業で、フィンガーボールの水を間違えて飲んでしまった人の話を聞きました。マナーを知らずに、間違ってしまった人をばかにしてはいけないという趣旨のお話だった記憶です。  

Posted by 熊太郎 at 06:06Comments(0)TrackBack(0)読書感想文

2024年04月29日

パンやの くまさん フィービとセルビ・ウォージントン

パンやの くまさん フィービとセルビ・ウォージントン さく/え まさきるりこ/やく 福音館書店

 かわいらしいくまの絵です。ぬいぐるみみたいな、くまです。
 1987年(昭和62年)発行の絵本です。

 仕事人間のくまに見えます。
 まじめに朝早くから働くのです。
 絵本に登場しているくまは、仕事をするために生きているのです。

 パン屋という店舗での販売と、パンの移動販売車による販売と、ふたつの販売方法を一日のうちに一頭のくまが両方こなします。稼ぐのです。

 パン屋ですから、朝ご飯はパンです。(ちなみに、夜のごはんもパンでした)

 くまはひとりで、パンとケーキとパイをつくります。

 くまは、移動販売車の運転もします。
 くまは、がらんがらんと鐘をならして、お客さんの呼び込みもします。
 人気のパンやさんです。

 くまは、配達もします。
 くまは、たんじょうびのパーティをするおうちに、ケーキを届けます。

 移動販売車の販売終了後、くまは、お店にもどって、お店でパンを売ります。
 くまは、あいさつがしっかりしています。
 『おはようございます』、『いらっしゃいませ』、『ありがとうございます』
 こどもづれのおきゃくさんのときは、くまはこどもさんに、キャンデーをプレゼントします。
 
 くまの晩ごはんは、ジャムをぬったマフィンとゼリーでした。
 マフィンは、イギリスの絵本作家さんですから、イングリッシュ・マフィンで丸型のパンでしょう。
 夕食後、本日の儲けを(もうけを)確認します。
 お客さまからいただいた硬貨を貯金箱に入れます。これで、安心だそうです。お金をためると気持ちが落ち着きます。お金がたまると、気持ちにゆとりが生まれます。
 
 くまは、ひとりでがんばるのね。
 仲間がほしいところです。

 ひらがなが読めるようになったこどもさんが、自分で声を出して読むのに最適な絵本だと感じました。そして、しっかり働こう(こどもだから勉強しよう)ということを教える絵本でもあります。  

Posted by 熊太郎 at 07:02Comments(0)TrackBack(0)読書感想文